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コロナワクチン2回目接種して副反応2021/08/17 23:17:39



モデルナワクチンは3人に2人副反応が出ると聞いていたので、職域ワクチン接種後に有給をとっていた。24時間経ってから体がだるくなり、最高39℃まで体温が上昇。3日後にやっと平熱になった。その後1週間ぐらいは耐えられない睡魔が襲ってた。多分副反応w


シャープ製マスク、第21回抽選で当選2020/09/25 23:59:11


シャープ製マスク21回目で当選

マスクが品薄時期のとき、シャープが国産で製造するということで4月下旬に応募していたが、あれから4ヶ月以上経った9月半ばごろに当選メールが到着。

★━━━━━━━━━━━━━━━…
【第21回ご当選のお知らせ】シャープ マスク MA-1050ご購入手続きのご案内
…━━━━━━━━━━━━━━━★
シャープマスク抽選販売事務局です。
このたびは、シャープ製マスク抽選販売にご応募いただき、誠にありがとうございました。
第1回~第21回までにご応募いただいた方の中から、厳正なる抽選の結果、ご当選されましたのでお知らせいたします。
感染拡大防止のため、マスクの着用が推奨されています。
シャープ製マスクは、国内クリーンルームで製造された安心の国産マスクです。
 (以下略)



一人ひと箱50枚しか買えないが、せっかく当選したので購入手続き。
[注文日時]2020/09/19 7:52
ご注文頂いた商品 個数 価格
不織布マスク(ふつうサイズ)(50枚セット)
商品番号: MA-1050
1 3,278円
小計(税込) 3,278円
送料(税込) 660円
内消費税 358円
合計(税込) 3,938円

5月には楽天で100枚1万円の相場だったが、今はドラッグストアに行けば50枚2000円台にまで価格が戻った。シャープ製は国産で送料もしっかり取られるから割高感はあるが、店頭販売されていない貴重なマスクを手に入れられたのはちょっと嬉しい。



右下にSHARPのロゴが入っている。これで裏表がはっきりわかるという事だ。
今まで使っている中国製のは20枚に1枚くらい紐がすぐ取れたりして品質がイマイチ安定していないが(それでもマシな方)シャープ製は紐がしっかり融着されて、マスクが折れていたりまがっていない。

シャープマスクの応募は今でも続いている。

世界ではまだコロナウィルスが蔓延しているが、マスクなしでも生活できるように早く終息してほしいと願っている。




うがいや消毒など、色々な用途に使用できる「ドクタープラス」2019/06/30 01:38:47


次亜塩素酸水ドクタープラス

インプラントの手術をして骨が形成されるまで3ヶ月、久々の歯科へ出向く。前回の手術が脈拍や血圧をモニターしながら2時間弱もかかったのだが、今回は麻酔打って、メスでふさがった部分を出して、ボルトで仮止め。10分もかからない位。あと3回分、毎週土曜に連続して通う事になる。

ところで、前回手術後にうがい用にと手渡された次亜塩素酸水だが、最初は塩素のえぐみの様な味で中々なれなかったけど、傷が化膿する事もなく、無事に傷がふさがった。
それと何となく口がすっきりする。市販品のマウスウォッシュはアルコールがきつかったり、単に清涼感があるだけで、本当に口臭はとれているのかと思ってしまったが、次亜塩素酸水は効果があると実感できた。



そのボトルも使い切ってしまったので、売っていないか調べてみたら、ありました。
商品名「ドクタープラス」。
普段のうがい用には約8倍に希釈すれば良い。



あと、ちょうど皮膚科で親指の巻き爪を診てもらい、その時に爪の一部をニッパーで切り取ってしまったが、その滅菌としても使用できる。足のにおいも軽減されているみたいだ。

滅菌や除菌としてはベンザルコニウム塩化物液(オスバン)が有名だが、うがいには使用できない。その点、こちらは体内への安全性が低いとの事だ。

※使用方法、用法は独自で記載しているため、自己責任でおねがいします。

雑記(2019/4/6)2019/04/06 23:12:15


桜満開

4月は気温が極端に上がったり下がったりで、コートがいると思えば、マフラーすら要らない位だった一週間だった。花粉症はマスクとクラリチン、点鼻薬で何とかこの時期を乗り越えられそうだ。だいたい4月の第2週くらいには落ち着く。

今日、午前中に歯科へ行き、インプラントで手術した縫合の抜糸をした。最初は10針以上縫われたのかなと思ったのだが、糸を切っている回数を数えたら6回だった。
人間の体というのは不思議なもので、自己治癒力に頼りながら回復していくものだと実感。
インプラントの骨が形成されるまで3ヵ月弱かかるので、次の治療は6月下旬、最終的に終わるのは8月位はかかるだろう。

あと、右足は痛い部位が膝→かかと→土踏まず→外側足首→内側足首、そして今はかかとに少しの痛みが移っている。痛みが移るというのも奇妙なのだが、かかりつけの先生に紹介状を書いてもらって計2ヶ所に診てもらったが異常なしで、膠原病やリウマチの検査も、その疑いはない。結局は痛み止めを使った対処療法になる。
幸い、ひざが痛い時と違って歩行は普通にできるようになったのが良かった。

そういえば、新しい職場になってから1年3ヶ月が経過した。この仕事を始めてから丸5年も経ったのか。経済的に安定し、技術力もこの5年間で色々と学ぶ事が多かった。定年なんてまだまだだろうなんて思っていたし、私が20歳代頃はエンジニア30歳説を唱えられていた時代だった。

今では50歳代後半でも普通にプログラムを書いているし、測定機器と半田ごてを使ってデバッグをしているのが普通である。その方々は実に生き生きしている。
ある職場では、配置転換で管理職に配属された方がいて、サラリーマンは色々大変だなと思った事もある。私もサラリーマンだけどw
これからどういう生き方が一番良いのか考えながら仕事をしていこうと思う。

インプラント手術2019/03/23 19:50:05



3月初頭にインプラントを入れることにしてから3週間、今日は手術の日。
これがインプラントを入れる前の計画図。インプラントの右側が黒く抜けているのが骨ができていない部分で、ここに自分の骨を削って集めて移植するかしようとしていた所だ。

手術当日は、同意書のサイン、インプラント専用マウスピース冶具の確認のあと、口内清掃を行い、血圧計をつけた状態になる。手術中はずっと脈拍と血圧がモニターされていた。
口だけを開けたマスクで覆われ手術開始。麻酔は何度か注射され10分位には麻酔が効きはじめた。

実際見ているわけではないから、一体何をされているのかは分からないが、メス入れ、冶具入れ位置だし、切削、インプラント挿入、欠乏領域の補填、縫合な感じだと思う。
相当グロい状態なんだろうな(´・ω・`) 血とか苦手なので・・・

切削とインプラント挿入は、頭にずいぶんとトルクを感じた。先生がブツブツ言いながら何かをしていたw 
手術中で何が大変だったかというと、のどに血液が流れ、むせそうになった事。その時は手術をいったん中断して、飲み込んだり咳をだしていいという指示を頂いた。それと強制的にあごを開ける冶具を使っていたので、あれが結構しんどい。

縫合はおそらく10針以上縫っていた感じ。1時間30分かけて助手1名の2名がオペを行う。精神を集中して行う作業で、更に体力も相当必要だろう。




手術が終わって、すぐにレントゲンとCTスキャン撮影を行って状態を確認。先生がブツブツ言っていたのは、欠乏領域が思ったよりも広かったので色々考えていたらしい。自骨を使って隙間を埋める予定だったのが、開けてみたら空間が広かったので、セラボーンという牛の骨でできた人工骨を充てん。これはインプラントではごく普通に使われている様だ。固まるまで1ヶ月位は必要。


インプラント手術

インプラントの埋め込みは成功。精度を求められるため、冶具の精度が一番重要な様だが、2時間弱の間ずっと集中して手術しているのを体験すると、最後は先生や助手の技量が頼りだと実感した。

処方は感染防止のフロモックス、痛み止めのロキソニン、腫れ止めのプレドニンを5日分、そしてうがい薬として次亜塩素酸水を処方してもらった。

私が花粉症で処方してもらったロラタジンは、プレドニンと類似する効能があるため、プレドニン服用中はロラタジン投与を休止。

暫くは腫れたり痛みがある様だが、それは問題ないとの事。ただ万一しびれていたら、2週間未満ならインプラントを外して調節できる。今の所は問題ない様だ。

この日は当たり前といえばそうだが風呂もお酒も禁止。夕食は普通にOKだけど暫くは柔らかいものになる。セラボーンという人工骨が固まるまでは砂状なのでここに硬いものとか入らないようにするためとの事。幸い出血はない。痛みも生活には支障がない状態。

今後の予定は4/6抜糸、6~7月頃歯が入る予定。
先はまだまだだね(*´ω`)


花粉症がやってきた2019年2019/03/11 00:00:00


例年より早い花粉症

今年の花粉症は3/7頃から目がかゆくなり、土曜日に病院へ行き1か月分のフルチカゾンの入ったフルナーゼ点鼻薬とクラリチンを処方してもらった。今ではクラリチン(ロラタジン)は薬局でも買えるのだが、病院へ行って処方してもらった方が安上がりだ。

フルナーゼ点鼻薬、容器がガラスで56噴霧できるから28日分。花粉症が終わる頃に薬が無くなるあんばい。

引っ越した最初の春は、花粉症がひどくてどうしたものかと思ったが、このマンションの近くに杉の木があることが分かったので、玄関側の換気口は1か月間塞いでおいた。

部屋を徹底的にモップで拭き掃除して、目もこまめに洗って今年も万全の体制で乗り切ろうと思う。


インプラントを入れる事にした2019/03/02 22:01:37


インプラントを入れる前の歯の調査

子供の頃、歯の管理がいい加減だったので、治療の痕跡がとても多いが、この20年位は虫歯はゼロを保っている。まあ入歯にならなくて良かった。

今年1月に左下奥歯を抜歯してもらったが、あれから2ヶ月経ちインプラントに適した状態かのチェックを行った。CTスキャンによる調査費用は約5万円強。
CTスキャナが頭を2周ほど回って撮影される。歯を閉じた状態と、脱脂綿を咥えながらの状態での2回撮影。



結果は、10分もしないで分かる。一度抜いた部分の骨の形成は、抜いた時に既に悪くなっていたらしいので、骨が予定よりも形成されていないという事だったが、2ヶ月待ってこれだと、それから待っても同じという事と、ねじがかかる部分がちゃんとある事、そして自分の骨を削り取って充てんしたり、充てん剤などを使用することで、問題なくインプラントができる説明を受けた。自分の骨を埋める(´・ω・`)恐ろしい表現

3Dで映し出される自分のあごの骨格は、ぐりぐり回転できる。医療はここまで進化したのか。
水色がインプラント予定部分で、黄色が安全領域。これを超えると神経や血管に触るので、そういった冶具を作るのにお金がかかるらしい。



この赤い部分が神経などが通っている部分。今月終わりごろインプラントを入れて、更に数か月後に仮歯、本歯という予定だ。

まあ、それにしてもインプラントは安くないね。インプラント代は54万円。私の場合は標準でOKだったが、術の難易度によって変動する様だ。
既に振り込んだが、検査費用と合わせて60万弱はかかると思った方がよい。

インプラント以外にも、部分入れ歯とかなら保険が効いて全然安くできるが、メンテナンスが大変だし、抜きっぱなしにすれば数年後は上の歯がぐらついて脱落する場合もある様なので、食事をおいしく食べるにはお金がかかってもやっぱりちゃんと直しておこうと思った。

結構お金がかかるが、医療費控除ができるので、来年の確定申告には忘れないようにしておこう



プロテイン飲料「ザバスホエイプロテイン100」2019/01/26 20:50:25


ザバスホエイプロティン100

足の調子が良くなってきたので、バス通勤から徒歩通勤に切り替え始めた。足の痛みは対処療法しかなくて、結局鍛えるしかないんだなと思っている。

いつもは気にもしていなかったプロテイン飲料なのだが、最近コンビニで安く買えるようになってきて、マイブーム到来。マッスルマンになることは考えていないが、体の栄養補助食品として、この粉のプロテインを買ってみた。Amazonで買ったので、容量を考えないで買ったが、すごく多いw 50杯分ある。これで4000円位なのでまあ悪くない。



運動後に飲むのがいいが、就寝1時間前や朝にも良いらしい。右足首親指と足首を動かすストレッチをした後に飲んで、だんだんと普段の体の調子にしていこうと思う。



歯科へ行ってきた2019/01/05 17:53:59


抜歯

2011年の8月に完治した奥歯だったが、2015年の秋ぐらいに片方が外れてしまった。痛みはないけど、ぐらぐらするし、口臭大丈夫かとか気になる。実は、この時いつもお世話になっていた歯科の先生が引退して、更に土日診療をやめてしまった。さて、この部分を直したいと思って、荻窪界隈を4つくらい回ったが、どこも対応不可能。無理に外すとリスクがあるといった内容だった。

そんな中、見つけた歯科だけは、丁寧に対応して頂いた。かぶせ物を2つに割って、新たにかぶせ物を作ってくれた。

そして、去年の11月頃、奥歯に違和感が。この時右ひざを故障していたので、とりあえずは放置していたが、年末に動けるようになったので予約。CTの結果、とうとう支えている奥歯が壊れた様で、更に根本の周りが膿んでいるのが分かった。

まあ、左奥歯のこの治療、数年持てば良いという話だったので、よくここまで耐えたと思う。
というわけで、頑張ってもらった左下奥歯を抜歯することに。

今日は、まず局部麻酔を打ち、それから2つの歯に掛かっているブリッジを切断。抜歯したあと、膿んでいる部分を掻き出されていった。麻酔が効いているとはいうものの、骨の近くについている部分をカリカリと掻き出すので、なんともおぞましい気持ちになったが、ひたすら時間が過ぎるまで耐えた。

綿を噛んで止血後、口を軽くすすぎ、ヒアルロン酸を封止してから歯茎を2針縫って終了。
ここまで約30分位かかった。先生の集中力と精神力も凄いなと思う。ちなみに女医。
抗生物質のフロモックスと鎮痛剤のロキソニンを処方。麻酔が切れる前に鎮痛剤を飲んでいたせいか、特に痛みや腫れはなかった。お酒や入浴は2日ほどできないが、まあ大した問題ではない。

何度か歯科巡りしてしまったが、評判も技術力も高い歯科へ行った方がいいと思う。今ではネットで口コミをみられるから、半分は当たっていると思っていい。避けた方がいいと思うのは深夜診療や先生が一人の所。診察台や周りがあまり衛生的でなかったり、歯の清掃だけで稼ごうとしていたりと、あまりいい印象は無かった。駅前も一見便利そうだけど、詰め物が外れたとか虫歯治療ならいいかもしれない。

口コミ検索 (あくまでも参考までに利用ください)
デンターネット  全国の歯科の口コミをみられる。口コミ量多め。古くからある。
あなたの街の歯科医さん デンターネットやプロレコ歯医者のデータを一部使用
デンタリスト 歯科の情報を知ることができる。口コミ量は少なめ。


温存していた左下奥歯がとうとうなくなってしまったが、このまま放置してしまうと、せっかく生きている左上奥歯が抜けてしまう可能性がある。義歯(いわゆる部分入れ歯)でも対応はできるが、色々大変なので、インプラントにすることにした。抜歯後2ヶ月に頭部CTで5万円強、そしてインプラント手術で約60万円強かかる。高い理由は15分ほどの説明を受けたので納得した。
まあ、何はともあれ歯はいろいろ大事なので、メンテナンスは続けていこうと思う。


2019年明けましておめでとうございます-今までを振り返って2019/01/01 00:00:00

※1/4 一部加筆修正、写真を挿入しました。


井草八幡宮門

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

最後にブログを書きこんでから5ヶ月弱も書きこんでいませんでした。
理由は幾つかあるのですが、一番大きな理由は、仕事量が増えたため、趣味のまとまった時間が取りにくく、電子工作ネタなどがとても少なくなってしまったというのがあります。
今年もそんな感じて不定期な書き込みとなりそうですが、どうか宜しくお願いします。

そういえばここに引っ越してきて、2年目になるんですね。去年のベストバイは洗浄機能付き便座でしたw 本当にこれは快適。早く買っておけばよかったと思っています。

平成31年も新元号は4/1に公表、5/1に改元ということで、貴重な年でもあります。



さて、今までを振り返ってみて自分の備忘録も兼ねて色々つらつらと書いてみようと思います。

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仕事面では、去年1月より測定装置の開発関係に携わっています。恐らく2006年から8年位のペースか、それ以上の仕事量ですが、やっていることは面白いのと、今までの私の知識と経験の蓄積が、手前みそながら役に立てていると思います。それなりに収入も増えました。

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過去の話をしましょう。

1985年寮でシャープX1 を囲みながら

高校卒業後、蒲田にある専門学校に入学しました。そこでは情報工学科を専攻し学びます。
寮は横浜線中山から約1時間かけて通学していました。2年目の夏ごろ、家庭の諸事情で寮をでて、同じクラスの友達に頼み込んで、大森にある木造アパートに転がり込みました。この頃、ゲームセンターのアルバイトを始めました。理由はどのアルバイトよりも時給が良かった事と、学校から近かったので決めました。あの時は4ヶ月ほどお世話になりましたが、お元気でしょうか。

この頃は仕送りが無くなり本当にお金の無かった頃で、学生時代は遊んだという記憶があまりありません。そのうち蒲田に月1万6千円の5畳半のアパートを借ります。当然風呂なし、共同トイレですが、台所だけはありました。ここは最終的に社会人時代を含めた5年間住む事になります。

1年休学届を出して、3年かけましたが無事殆どの単位を取得して卒業しました。こたつでレポートを書き、対数グラフを自在定規で書いていた頃を思い出します。専門学校生は卒業するのが大変だと思いました。


1988年か9年頃

アルバイト時代は、メダルゲームなどのトラブル等に対応していた時、ふと自分の考えた回路がコインつまりを予防できるのではと、今となっては勝手な改造を行ってましたが、これが本部会社の方で評価をもらい、更にメダルゲームの開発などの事があって、ここの技術部に就職しました。ゲームセンターのフロアーで半年の研修を行いながら、運転免許を取得します。
しかし、いざ開発部に入ると、開発とは程遠いメンテナンスの部署でした。営業の店舗は数十店舗あり、主にアーケードゲーム機の修理や台の入れ替えでした。

それでも、仕事の終わったわずかな時間を使用して、リレーやグルーロジックで動くマシンを、納屋に転がっていたCP/Mマシンを使って、アセンブラを駆使し、ラッピング基板を完成させてボーリング場に納めたのはいい思い出です。

アルバイト時代から2年、正社員で2年が経とうとしているとき、思い切って会社に心境を話しました。答えは将来自社開発を行いたいとの事。なら、なおさら私の技量が足りません。
結局、基礎的な開発ができないと思ったので、この会社の方に、丁寧に事情を説明し、次への転職となります。この頃は昭和から平成元年になった年の幕開けでした。


1992年頃のプロジェクト打ち上げ

最初に(開発会社として)就職したのは1989年、委託開発会社という大手中堅メーカーから開発案件をもらい開発していく姿をとっていました。たくさんの開発を行い、ファックス開発や評価、同時会議通訳システムなどの方式検討など、実に様々な事をさせていただきました。

ただ、メーカーではなかった事とバブル崩壊後だったこともあり、大手からの委託案件が激減します。私に何かできる事を考え、技術営業を行いました。いくつかの新規開発などが決まった時には嬉しかったです。余談ですが、この時知り合った方とは、今でもお付き合いがあり、去年忘年会でお会いしました。私の苦しい時に仕事を頂いた恩人でもあります。人のつながりは大事と何十年過ぎた今でも思います。
当時は平成5年(1993年)、委託でなくてメーカー先でじっくり開発をやって行きたいと思っていた私は、仕事の取引先だった所へアシスト自転車の開発の話で横浜の小さな会社へ転職しました。

一緒にここに来たもう一人の人と、某自動車会社2人との4名で数か月は試作や開発を行っていました。自動車関係の方からはひずみゲージの使い方を教えてもらい、これで車体剛性を測るんだとか、ひずみゲージの固定は瞬間接着剤でOKとか、これまた目からうろこが出るような情報交換をしながら開発をすすめていき、プロジェクトが一見軌道に乗るかに見えました。
しかし、経営者同士の対立で、開発物件はチームもろとも雲散霧消と消え、開発どころか工場の巻き線ロボットの教示や電子蛍光灯の調整など、開発とかけ離れた仕事となってしまいました。このままでは何もできないで終わってしまうと危惧し、仕事先を探していました。
アシスト自転車の開発の事は、本当にもったいない事ですが、経営の考え一つで方針が変わってしまうものなのかと悟った時期でもありました。


1996年頃

時代はwindows95になったばかり。求人広告を眺めていると、ノートパソコンの開発の募集がありました。メーカーではないのですが、どうせやるなら最先端をと、場所も新横浜と近い事もあって、面接して即決、1995年12月に転職しました。会社は10人もいない小さな会社。この会社ではノートパソコンのかなめであるパワーマネージメントLSIを売りにFAE( Field Application Engineer)を展開している強みで、国内大手パソコンメーカーの引き合いから、仕事が色々ありました。


ある開発の日

高密度な基板設計、常に最新のパソコンCPUを使用した設計や評価など、本当に普通では経験をし得ない貴重な事ができました。まだノートパソコン黎明期だからこそできる色々な土俵があったと思います。私の考案したオーディオ回路などは、某ノートパソコンに採用されたりしました。
そして、フロリダの工場やボストンの工場へ行く事ができ、これまた貴重な経験を積みました。windows98の時代です。日本との時差は13時間あり、日本での早朝電話会議時、渡米側10人余りはレジデンス(平屋のホテルみたいなもの)からバドワイザーを飲み会議を行っていた緩い時代でもありました。

そんなノートパソコンの開発が花形なのも1年で各社低価格競争となり、会社の一部はアルバイトなどを入れて大手ノートPCのサポート修理センターを行うなど、じり貧な状況となっていきます。気が付いてみると、開発と呼べる案件がほとんど無く、開発を行っていた人たちの新たな岐路に迫られる運命となります。


2004年頃の屋形船

とりあえず何かやろう。ここからは、アミューズ関係や、小さな開発会社へ行ったり、または商社で開発したり、数年単位で開発業界を渡り歩きました。開発という命題を崩さないで、私が生きるため、結果として短命な仕事のやり方になってしまったのかもしれません。この頃は、あの9.11事件もあった時代です。最終的には委託開発に戻り、秋葉原の小さな会社で細々と仕事をしていました。この頃は、過去の人脈伝手に仕事も色々頂きました。

2006年初春、そんな折、以前ノートPC開発で一緒の釜の飯を食べた仲間から、地上デジタル開発をやらないかと誘われました。当時はまだアナログテレビが主流で、デジタルテレビはこれからという事と、来る2008年北京オリンピック需要を見据えての話だという事を切り出してきました。今の会社でも、何とか細々やっていけるかなと思っていたのですが、やっぱり新しいことはやってみたいし、メーカーでありたいと思い、悩んだ挙句2006年4月に転職です。


2007年頃

ここでもまた未体験の技術と向き合う事になります。ARIB STD-B31、地上デジタル放送の国内向けISDB-T規格のチューナと周辺開発の主にハードウェア開発をやってきました。仲間はこの時ハードだけで10名、プラットフォームやミドルウェア、検証チームを含めれば、ざっと50人で数種類の地上デジタルモジュールを開発していました。ここでの最初のミッションはマレーシアでの工場立ち上げ。結果として一ヶ月滞在する事になりましたが、量産体制までもっていくことができました。初めてのマレーシアでの出張は大変でしたが、今となっては貴重でいい思い出です。
それから、地上デジタルテレビやワンセグにまつわる開発を行い、中国や韓国へも行きました。色々順調かと思っていたのですが、別の所で経営に不穏な話がでてきており、それを気にしていました。

リーマンショックと重なる2009年春に大規模な人員整理があり、社員の半分以上が解雇されました。私はその時は解雇されませんでしたが、その年の9月頃会社更生法となりました。引き続きテレビ関係の開発を行っておりましたが、12月にある小さな会社に技術者約30人を譲渡したものの、契機をすぎて成果が出ずに結局解体したのが2012年でした。



この後1年間はハローワークで給付をもらいながら次の仕事を探していましたが、ことごとく見つからず、次の2013年ではこれでは貯金が目減りするので、個人事業主として1年弱過ごしました。儲けが出るには程遠く、経費もかさんでいくので、毎月が赤字です。今だと青色申告とか、もっとやり方があったと思うのですが、まず個人事業主になるための知識が乏しかった、いやほとんど無いといっていいでしょう。平行して転職活動をしていましたが、最悪、生活を確保できるようにタクシーの面接などにも足を運びました。

再就職がこんなに難しいとは思いませんでした。派遣会社は賃金や待遇に、当時はいいイメージがなく避けていたのですが、いよいよ仕事をしないと生活ができないと、もう背に腹は代えられず派遣の道を進みました。今思うと、タクシーの面接に行ったのは、運転資金でも作って個人事業主でもやればよいなどと行き当たりばったりに思っていたのじゃないかと思います。



晴れて2014年1月に内定し2月より再就職を果たしました。ただ最初はアミューズメントでしたが、これも背に腹は代えられません。しかし、ふたを開けてみると、最新のCADシステム、一台1千万超の測定機器や設備などが全部購入品というのも驚きましたが、私が生涯経験できないような設備を使えたのが夢の様でした。ジブリの「風立ちぬ」でも戦争兵器を作っているが、我々は技術を追いかけているシーンがあり、まさにそんな境遇でした。

そして、なによりも今まで散々だった転職活動の負としていた職務経歴書が、すべて正の方向に動き、私の今までの経験がこんなにも役立ってくれる事を、とても嬉しく思ったのです。派遣は後ろめたいというイメージはこの頃、払拭しました。

アミューズメントは結局1年だけでした。諸事情により多くは語れませんが、最後まで現場の方などからは送別会などを行ってもらい、手厚い対応でした。経営的に派遣は清算しやすいのですが、現場ではこれから大変だとぼやいていたのがとても印象的でした。



2015年になると、通勤に自宅から1時間半くらいかかりますがX線の開発関係をやりました。まったく未知な分野で、扱う電圧は一気に10万ボルト1ミリアンペアです。扱いを誤るとあの世行です。
アミューズメント時代の華やかさは全くなく、随分と古い建物と設備で部屋が寒く、最初の1ヵ月目で1週間ほど風邪をこじらせてしまいましたが、会社は休めませんでしたので無理して通勤しました。

X線の動作を3ヵ月で覚え、次の半年で大手にプロトタイプを納めました。製品評価をおこなっていましたが、FPGAの中身とか組み立て設計書なども手掛けたので、仕事としてはかなり手ごたえがありました。途中で組織変更があり2017年には残業がほとんどなかった状態です。(この時にトランジスタ技術のPIC記事を執筆しました。)

ここを勤めようと思えば続けられたのですが、私が所属している派遣会社は更なるスキルを目指すための計画書や目標を作って日々のスキルアップを目指し、給料もそれを考慮して上がるようになっています。なので、色々な限界が見えてきていたので、秋ごろに次の仕事の紹介を派遣の営業に動いてもらっていました。数社のマッチングで決まったのが、現在勤めている光測定機器関係の会社です。
現在の職場の内容は、勤めている関係でここでは書きませんが、私の知らない事はいっぱいあると強く思いました。一つの会社に長く勤めていたら、こんな経験はおそらくそうそうできないでしょう。

昨年秋ごろには、どうしても切り抜けられないハードウェアの問題が2つ発生しました。それを私が方式の提案をしたところ、最初は受け入れてもらえませんでした。それもそうです。実績というのを重んじた設計は当然あるでしょう。しかし、私の経験でこの方法なら解決方法ができる事を、検証レポートと共に丁寧に説明して、最終的には1つは別の方法、そして1つは私の方法が採用されました。地味な回路ですが、その方法は画期的で、周りの方々の評価と信頼を頂きました。

ここで、私は学歴が専門学校卒(私は日本工学院専門学校卒)とか、「転職が多いですがじっくり腰をすえて仕事できないんですか」とか面接の担当者から言われた事がありました。そういう事もあったので、自分になにか自信がなく、後ろめたさがあったのかもしれません。しかし、学校を卒業したあと、転職が多いものの、やってきたのは開発一筋で行ってきましたし、絶えず勉強という事を忘れはしませんでした。これらが、自分の血肉となって今の私となっているんだと痛感しております。



今現在、派遣業をやっていますが、派遣は決して悪いものではありません。全て理想的にいかないかもしれませんが、少なくても何か問題があった時のリカバリは、個人で職探しするよりもはるかに良いです。何よりも、色々な技術職を経験できます。私の所は資格手当がチャージされ、前向きな人を評価するようにできています。

転職のとき、個人で履歴書や職務経歴書を企業に提出するとき、転職経験が多くなれば人事の採用がマイナス評価になります。「落ち着いて仕事していない」「飽きやすい」「会社をすぐ辞めるのでは」というのが根底にあると思います。日本の企業の年功序列が崩壊していても、それに順応できない人事はたくさんあるので、ある意味仕方のない事なのかもしれません。
それが、派遣会社に所属すれば一転して企業が欲しがる職務経験値として評価されプラスとなります。人材の需要の発端が、人事からなのか、それとも現場からなのかの違いが一番大きいと思います。派遣会社は、その部分をうまく捉えて営業しています。

給与はどうかと言えば、あなたがどれだけ欲しいか、もしくは必要かで一概に言えません。ですが、50歳を超えても技術者として勤めあげるという事はできると思います。派遣会社に勤めるという事は、マネージャーがいつもついている感じで、職務経歴書も全部管理してくれています。それに一番大きいことは、新しい技術をいつも取り入れられる事です。これも時と場合によるのですが、少なくてもそういうチャンスはあります。派遣で切られてしまっても、次の派遣先を工面するシステムになっています。ハローワークでとても不安な思いをしていた頃を考えれば、世界が全く違います。

テレビ時代の時に知り合った方は、リーマンショック以降は名の知れた経営者のいるソフトウェア会社に居たのですが、暫くぶりに会ったときに話を聞くと、どうもやりたい仕事を行っているわけでは無かったようでした。
経営陣を忖度するくらいなら、やりたい事をやりたいといっていたので、今の私の会社を紹介しました。あれから3年、今では落ち込んでいた彼も元気にコードを書いています。合計3人を、この4年の間に紹介しましたが、技術畑に根を下ろし、さらに成長しながら活躍しております。

派遣会社推しになってしまいましたが、私は特に派遣が好なわけでなく、私が足りない部分を補ってくれる機能があるという事です。
ずっと同じ所で勤められる事に越したことはありません。終身雇用がダメと言っているわけでもありません。それに、家庭を持っている方々にとっては、今ある環境を崩すという事は、とても悩ましいことです。ただ、人の活動ができる時間は限られています。ここでこれからどうしていくかは、様々な周りの環境を考えつつ、数日じっくり考えてみるのが良いかもしれません。


以上、私がここまで書いた理由は、何かの理由で失業状態となった方とか、今仕事でどうしたら良いか悩んでいる方々に、私はどういうあゆみで開発業に携わってきたのか、そしてどんな問題が私の中を通り過ぎていったのかを語ることで、少しでも読んでいる方のヒントになればと思いました。

文章で拙い部分があると思いますが、ご了承いただければと思います。


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健康面ですが、5月半ばから8月上旬の2ヶ月半、9月半ばから12月中旬の3ヵ月は、右ひざと右足首を故障していて、一時期松葉づえ生活と普通の杖で生活していました。レントゲンやMRIなど撮ったり、紹介状書いてもらって別の病院へ見てもらうなど、2週間に1度通院していました。
トラムセットとノイロトロピン、胃薬処方、それとモーラス湿布で合計4ヶ月過ごしていました。
このブログで度々出てくる足の故障によく似ている症状なのですが、一体これは何でしょうねという病気です。体脂肪計を1年モニターして食生活や生活リズムには気を付けていましたが、病名がよくわからないというのには困ったものでした。

こんな状態でしたが、去年1月から配属された会社は、幸いフレックスを使えて最大朝10時30分出社できる事と、場所がここから2駅なので、特に休む事なく会社を普通に務める事ができました。

今は薬をやめており、右足首が少し痛痒い位で、普通に階段の昇降ができる状態まで回復しています。

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2018年10月下旬

ほか、去年特別な事って何だろう。母親を札幌まで送るとき、札幌で一泊した時でしょうか。母親とホテルで泊まる事は初めてでした。

あ、それと去年私の家族が一人増えました。
私のじゃありませんw 妹のです。去年は、車いすで介護が必要な父を熱海まで家族そろって日帰り旅行に行きました。こういう事って嬉しいですね。







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