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会社はずっとテレワーク中2021/07/19 15:04:16



久々に出社して会社同僚と黙食。まあ普通に話はしますがw
そうそう、今の会社は4年目となり、製品を2つ開発に携わる事ができた。会社は地域を出してしまうと分かってしまうので伏せておくが、荻窪よりも西側の方面である。都内に勤めていた時代が懐かしい。

コロナ禍で会社のテレワークを開始したのが去年の4月下旬から。最初の緊急事態宣言が出た時は40日以上のテレワークで、今は週に2回ほどの通勤のペース。
開発仕事をしていると、自宅でできる仕事は限られてしまうのは仕方ないけど、VPNとかAzureを駆使し、Teamsで何人何十人と同時会議を自宅でできる時代がこんなにあっさりやってくるとは思わなかった。

雑記(2019/4/6)2019/04/06 23:12:15


桜満開

4月は気温が極端に上がったり下がったりで、コートがいると思えば、マフラーすら要らない位だった一週間だった。花粉症はマスクとクラリチン、点鼻薬で何とかこの時期を乗り越えられそうだ。だいたい4月の第2週くらいには落ち着く。

今日、午前中に歯科へ行き、インプラントで手術した縫合の抜糸をした。最初は10針以上縫われたのかなと思ったのだが、糸を切っている回数を数えたら6回だった。
人間の体というのは不思議なもので、自己治癒力に頼りながら回復していくものだと実感。
インプラントの骨が形成されるまで3ヵ月弱かかるので、次の治療は6月下旬、最終的に終わるのは8月位はかかるだろう。

あと、右足は痛い部位が膝→かかと→土踏まず→外側足首→内側足首、そして今はかかとに少しの痛みが移っている。痛みが移るというのも奇妙なのだが、かかりつけの先生に紹介状を書いてもらって計2ヶ所に診てもらったが異常なしで、膠原病やリウマチの検査も、その疑いはない。結局は痛み止めを使った対処療法になる。
幸い、ひざが痛い時と違って歩行は普通にできるようになったのが良かった。

そういえば、新しい職場になってから1年3ヶ月が経過した。この仕事を始めてから丸5年も経ったのか。経済的に安定し、技術力もこの5年間で色々と学ぶ事が多かった。定年なんてまだまだだろうなんて思っていたし、私が20歳代頃はエンジニア30歳説を唱えられていた時代だった。

今では50歳代後半でも普通にプログラムを書いているし、測定機器と半田ごてを使ってデバッグをしているのが普通である。その方々は実に生き生きしている。
ある職場では、配置転換で管理職に配属された方がいて、サラリーマンは色々大変だなと思った事もある。私もサラリーマンだけどw
これからどういう生き方が一番良いのか考えながら仕事をしていこうと思う。

派遣勤め5年を振り返り2019/02/09 20:52:15


雪の海浜幕張

今日は会社の行事で海浜幕張に来ている。会社に入ってもう丸5年が経ったのか。あの時仕事が中々決まらず、精神的に苦痛の日々が続いていた事を思うと、立ち直れた自分がいて本当に良かった。

今年4月から働き方改革関連法が段階ごとに施行されていく。福利厚生は普通に有給は取れているし、給料についてもおおむね納得して働いている。これからの課題と言えば、副業などの扱いをどう考えていくのかだと思う。もっと流動的な雇用が求められるだろう。また社会的に貢献できる技術的な活動などが、派遣でも普通に行える時が来れば良いと思っている。

私は派遣でいつまで働くのかは分からないが、少なくてもエンジニアとしての生涯は続けていければと思っている。


2019年明けましておめでとうございます-今までを振り返って2019/01/01 00:00:00

※1/4 一部加筆修正、写真を挿入しました。


井草八幡宮門

新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

最後にブログを書きこんでから5ヶ月弱も書きこんでいませんでした。
理由は幾つかあるのですが、一番大きな理由は、仕事量が増えたため、趣味のまとまった時間が取りにくく、電子工作ネタなどがとても少なくなってしまったというのがあります。
今年もそんな感じて不定期な書き込みとなりそうですが、どうか宜しくお願いします。

そういえばここに引っ越してきて、2年目になるんですね。去年のベストバイは洗浄機能付き便座でしたw 本当にこれは快適。早く買っておけばよかったと思っています。

平成31年も新元号は4/1に公表、5/1に改元ということで、貴重な年でもあります。



さて、今までを振り返ってみて自分の備忘録も兼ねて色々つらつらと書いてみようと思います。

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仕事面では、去年1月より測定装置の開発関係に携わっています。恐らく2006年から8年位のペースか、それ以上の仕事量ですが、やっていることは面白いのと、今までの私の知識と経験の蓄積が、手前みそながら役に立てていると思います。それなりに収入も増えました。

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過去の話をしましょう。

1985年寮でシャープX1 を囲みながら

高校卒業後、蒲田にある専門学校に入学しました。そこでは情報工学科を専攻し学びます。
寮は横浜線中山から約1時間かけて通学していました。2年目の夏ごろ、家庭の諸事情で寮をでて、同じクラスの友達に頼み込んで、大森にある木造アパートに転がり込みました。この頃、ゲームセンターのアルバイトを始めました。理由はどのアルバイトよりも時給が良かった事と、学校から近かったので決めました。あの時は4ヶ月ほどお世話になりましたが、お元気でしょうか。

この頃は仕送りが無くなり本当にお金の無かった頃で、学生時代は遊んだという記憶があまりありません。そのうち蒲田に月1万6千円の5畳半のアパートを借ります。当然風呂なし、共同トイレですが、台所だけはありました。ここは最終的に社会人時代を含めた5年間住む事になります。

1年休学届を出して、3年かけましたが無事殆どの単位を取得して卒業しました。こたつでレポートを書き、対数グラフを自在定規で書いていた頃を思い出します。専門学校生は卒業するのが大変だと思いました。


1988年か9年頃

アルバイト時代は、メダルゲームなどのトラブル等に対応していた時、ふと自分の考えた回路がコインつまりを予防できるのではと、今となっては勝手な改造を行ってましたが、これが本部会社の方で評価をもらい、更にメダルゲームの開発などの事があって、ここの技術部に就職しました。ゲームセンターのフロアーで半年の研修を行いながら、運転免許を取得します。
しかし、いざ開発部に入ると、開発とは程遠いメンテナンスの部署でした。営業の店舗は数十店舗あり、主にアーケードゲーム機の修理や台の入れ替えでした。

それでも、仕事の終わったわずかな時間を使用して、リレーやグルーロジックで動くマシンを、納屋に転がっていたCP/Mマシンを使って、アセンブラを駆使し、ラッピング基板を完成させてボーリング場に納めたのはいい思い出です。

アルバイト時代から2年、正社員で2年が経とうとしているとき、思い切って会社に心境を話しました。答えは将来自社開発を行いたいとの事。なら、なおさら私の技量が足りません。
結局、基礎的な開発ができないと思ったので、この会社の方に、丁寧に事情を説明し、次への転職となります。この頃は昭和から平成元年になった年の幕開けでした。


1992年頃のプロジェクト打ち上げ

最初に(開発会社として)就職したのは1989年、委託開発会社という大手中堅メーカーから開発案件をもらい開発していく姿をとっていました。たくさんの開発を行い、ファックス開発や評価、同時会議通訳システムなどの方式検討など、実に様々な事をさせていただきました。

ただ、メーカーではなかった事とバブル崩壊後だったこともあり、大手からの委託案件が激減します。私に何かできる事を考え、技術営業を行いました。いくつかの新規開発などが決まった時には嬉しかったです。余談ですが、この時知り合った方とは、今でもお付き合いがあり、去年忘年会でお会いしました。私の苦しい時に仕事を頂いた恩人でもあります。人のつながりは大事と何十年過ぎた今でも思います。
当時は平成5年(1993年)、委託でなくてメーカー先でじっくり開発をやって行きたいと思っていた私は、仕事の取引先だった所へアシスト自転車の開発の話で横浜の小さな会社へ転職しました。

一緒にここに来たもう一人の人と、某自動車会社2人との4名で数か月は試作や開発を行っていました。自動車関係の方からはひずみゲージの使い方を教えてもらい、これで車体剛性を測るんだとか、ひずみゲージの固定は瞬間接着剤でOKとか、これまた目からうろこが出るような情報交換をしながら開発をすすめていき、プロジェクトが一見軌道に乗るかに見えました。
しかし、経営者同士の対立で、開発物件はチームもろとも雲散霧消と消え、開発どころか工場の巻き線ロボットの教示や電子蛍光灯の調整など、開発とかけ離れた仕事となってしまいました。このままでは何もできないで終わってしまうと危惧し、仕事先を探していました。
アシスト自転車の開発の事は、本当にもったいない事ですが、経営の考え一つで方針が変わってしまうものなのかと悟った時期でもありました。


1996年頃

時代はwindows95になったばかり。求人広告を眺めていると、ノートパソコンの開発の募集がありました。メーカーではないのですが、どうせやるなら最先端をと、場所も新横浜と近い事もあって、面接して即決、1995年12月に転職しました。会社は10人もいない小さな会社。この会社ではノートパソコンのかなめであるパワーマネージメントLSIを売りにFAE( Field Application Engineer)を展開している強みで、国内大手パソコンメーカーの引き合いから、仕事が色々ありました。


ある開発の日

高密度な基板設計、常に最新のパソコンCPUを使用した設計や評価など、本当に普通では経験をし得ない貴重な事ができました。まだノートパソコン黎明期だからこそできる色々な土俵があったと思います。私の考案したオーディオ回路などは、某ノートパソコンに採用されたりしました。
そして、フロリダの工場やボストンの工場へ行く事ができ、これまた貴重な経験を積みました。windows98の時代です。日本との時差は13時間あり、日本での早朝電話会議時、渡米側10人余りはレジデンス(平屋のホテルみたいなもの)からバドワイザーを飲み会議を行っていた緩い時代でもありました。

そんなノートパソコンの開発が花形なのも1年で各社低価格競争となり、会社の一部はアルバイトなどを入れて大手ノートPCのサポート修理センターを行うなど、じり貧な状況となっていきます。気が付いてみると、開発と呼べる案件がほとんど無く、開発を行っていた人たちの新たな岐路に迫られる運命となります。


2004年頃の屋形船

とりあえず何かやろう。ここからは、アミューズ関係や、小さな開発会社へ行ったり、または商社で開発したり、数年単位で開発業界を渡り歩きました。開発という命題を崩さないで、私が生きるため、結果として短命な仕事のやり方になってしまったのかもしれません。この頃は、あの9.11事件もあった時代です。最終的には委託開発に戻り、秋葉原の小さな会社で細々と仕事をしていました。この頃は、過去の人脈伝手に仕事も色々頂きました。

2006年初春、そんな折、以前ノートPC開発で一緒の釜の飯を食べた仲間から、地上デジタル開発をやらないかと誘われました。当時はまだアナログテレビが主流で、デジタルテレビはこれからという事と、来る2008年北京オリンピック需要を見据えての話だという事を切り出してきました。今の会社でも、何とか細々やっていけるかなと思っていたのですが、やっぱり新しいことはやってみたいし、メーカーでありたいと思い、悩んだ挙句2006年4月に転職です。


2007年頃

ここでもまた未体験の技術と向き合う事になります。ARIB STD-B31、地上デジタル放送の国内向けISDB-T規格のチューナと周辺開発の主にハードウェア開発をやってきました。仲間はこの時ハードだけで10名、プラットフォームやミドルウェア、検証チームを含めれば、ざっと50人で数種類の地上デジタルモジュールを開発していました。ここでの最初のミッションはマレーシアでの工場立ち上げ。結果として一ヶ月滞在する事になりましたが、量産体制までもっていくことができました。初めてのマレーシアでの出張は大変でしたが、今となっては貴重でいい思い出です。
それから、地上デジタルテレビやワンセグにまつわる開発を行い、中国や韓国へも行きました。色々順調かと思っていたのですが、別の所で経営に不穏な話がでてきており、それを気にしていました。

リーマンショックと重なる2009年春に大規模な人員整理があり、社員の半分以上が解雇されました。私はその時は解雇されませんでしたが、その年の9月頃会社更生法となりました。引き続きテレビ関係の開発を行っておりましたが、12月にある小さな会社に技術者約30人を譲渡したものの、契機をすぎて成果が出ずに結局解体したのが2012年でした。



この後1年間はハローワークで給付をもらいながら次の仕事を探していましたが、ことごとく見つからず、次の2013年ではこれでは貯金が目減りするので、個人事業主として1年弱過ごしました。儲けが出るには程遠く、経費もかさんでいくので、毎月が赤字です。今だと青色申告とか、もっとやり方があったと思うのですが、まず個人事業主になるための知識が乏しかった、いやほとんど無いといっていいでしょう。平行して転職活動をしていましたが、最悪、生活を確保できるようにタクシーの面接などにも足を運びました。

再就職がこんなに難しいとは思いませんでした。派遣会社は賃金や待遇に、当時はいいイメージがなく避けていたのですが、いよいよ仕事をしないと生活ができないと、もう背に腹は代えられず派遣の道を進みました。今思うと、タクシーの面接に行ったのは、運転資金でも作って個人事業主でもやればよいなどと行き当たりばったりに思っていたのじゃないかと思います。



晴れて2014年1月に内定し2月より再就職を果たしました。ただ最初はアミューズメントでしたが、これも背に腹は代えられません。しかし、ふたを開けてみると、最新のCADシステム、一台1千万超の測定機器や設備などが全部購入品というのも驚きましたが、私が生涯経験できないような設備を使えたのが夢の様でした。ジブリの「風立ちぬ」でも戦争兵器を作っているが、我々は技術を追いかけているシーンがあり、まさにそんな境遇でした。

そして、なによりも今まで散々だった転職活動の負としていた職務経歴書が、すべて正の方向に動き、私の今までの経験がこんなにも役立ってくれる事を、とても嬉しく思ったのです。派遣は後ろめたいというイメージはこの頃、払拭しました。

アミューズメントは結局1年だけでした。諸事情により多くは語れませんが、最後まで現場の方などからは送別会などを行ってもらい、手厚い対応でした。経営的に派遣は清算しやすいのですが、現場ではこれから大変だとぼやいていたのがとても印象的でした。



2015年になると、通勤に自宅から1時間半くらいかかりますがX線の開発関係をやりました。まったく未知な分野で、扱う電圧は一気に10万ボルト1ミリアンペアです。扱いを誤るとあの世行です。
アミューズメント時代の華やかさは全くなく、随分と古い建物と設備で部屋が寒く、最初の1ヵ月目で1週間ほど風邪をこじらせてしまいましたが、会社は休めませんでしたので無理して通勤しました。

X線の動作を3ヵ月で覚え、次の半年で大手にプロトタイプを納めました。製品評価をおこなっていましたが、FPGAの中身とか組み立て設計書なども手掛けたので、仕事としてはかなり手ごたえがありました。途中で組織変更があり2017年には残業がほとんどなかった状態です。(この時にトランジスタ技術のPIC記事を執筆しました。)

ここを勤めようと思えば続けられたのですが、私が所属している派遣会社は更なるスキルを目指すための計画書や目標を作って日々のスキルアップを目指し、給料もそれを考慮して上がるようになっています。なので、色々な限界が見えてきていたので、秋ごろに次の仕事の紹介を派遣の営業に動いてもらっていました。数社のマッチングで決まったのが、現在勤めている光測定機器関係の会社です。
現在の職場の内容は、勤めている関係でここでは書きませんが、私の知らない事はいっぱいあると強く思いました。一つの会社に長く勤めていたら、こんな経験はおそらくそうそうできないでしょう。

昨年秋ごろには、どうしても切り抜けられないハードウェアの問題が2つ発生しました。それを私が方式の提案をしたところ、最初は受け入れてもらえませんでした。それもそうです。実績というのを重んじた設計は当然あるでしょう。しかし、私の経験でこの方法なら解決方法ができる事を、検証レポートと共に丁寧に説明して、最終的には1つは別の方法、そして1つは私の方法が採用されました。地味な回路ですが、その方法は画期的で、周りの方々の評価と信頼を頂きました。

ここで、私は学歴が専門学校卒(私は日本工学院専門学校卒)とか、「転職が多いですがじっくり腰をすえて仕事できないんですか」とか面接の担当者から言われた事がありました。そういう事もあったので、自分になにか自信がなく、後ろめたさがあったのかもしれません。しかし、学校を卒業したあと、転職が多いものの、やってきたのは開発一筋で行ってきましたし、絶えず勉強という事を忘れはしませんでした。これらが、自分の血肉となって今の私となっているんだと痛感しております。



今現在、派遣業をやっていますが、派遣は決して悪いものではありません。全て理想的にいかないかもしれませんが、少なくても何か問題があった時のリカバリは、個人で職探しするよりもはるかに良いです。何よりも、色々な技術職を経験できます。私の所は資格手当がチャージされ、前向きな人を評価するようにできています。

転職のとき、個人で履歴書や職務経歴書を企業に提出するとき、転職経験が多くなれば人事の採用がマイナス評価になります。「落ち着いて仕事していない」「飽きやすい」「会社をすぐ辞めるのでは」というのが根底にあると思います。日本の企業の年功序列が崩壊していても、それに順応できない人事はたくさんあるので、ある意味仕方のない事なのかもしれません。
それが、派遣会社に所属すれば一転して企業が欲しがる職務経験値として評価されプラスとなります。人材の需要の発端が、人事からなのか、それとも現場からなのかの違いが一番大きいと思います。派遣会社は、その部分をうまく捉えて営業しています。

給与はどうかと言えば、あなたがどれだけ欲しいか、もしくは必要かで一概に言えません。ですが、50歳を超えても技術者として勤めあげるという事はできると思います。派遣会社に勤めるという事は、マネージャーがいつもついている感じで、職務経歴書も全部管理してくれています。それに一番大きいことは、新しい技術をいつも取り入れられる事です。これも時と場合によるのですが、少なくてもそういうチャンスはあります。派遣で切られてしまっても、次の派遣先を工面するシステムになっています。ハローワークでとても不安な思いをしていた頃を考えれば、世界が全く違います。

テレビ時代の時に知り合った方は、リーマンショック以降は名の知れた経営者のいるソフトウェア会社に居たのですが、暫くぶりに会ったときに話を聞くと、どうもやりたい仕事を行っているわけでは無かったようでした。
経営陣を忖度するくらいなら、やりたい事をやりたいといっていたので、今の私の会社を紹介しました。あれから3年、今では落ち込んでいた彼も元気にコードを書いています。合計3人を、この4年の間に紹介しましたが、技術畑に根を下ろし、さらに成長しながら活躍しております。

派遣会社推しになってしまいましたが、私は特に派遣が好なわけでなく、私が足りない部分を補ってくれる機能があるという事です。
ずっと同じ所で勤められる事に越したことはありません。終身雇用がダメと言っているわけでもありません。それに、家庭を持っている方々にとっては、今ある環境を崩すという事は、とても悩ましいことです。ただ、人の活動ができる時間は限られています。ここでこれからどうしていくかは、様々な周りの環境を考えつつ、数日じっくり考えてみるのが良いかもしれません。


以上、私がここまで書いた理由は、何かの理由で失業状態となった方とか、今仕事でどうしたら良いか悩んでいる方々に、私はどういうあゆみで開発業に携わってきたのか、そしてどんな問題が私の中を通り過ぎていったのかを語ることで、少しでも読んでいる方のヒントになればと思いました。

文章で拙い部分があると思いますが、ご了承いただければと思います。


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健康面ですが、5月半ばから8月上旬の2ヶ月半、9月半ばから12月中旬の3ヵ月は、右ひざと右足首を故障していて、一時期松葉づえ生活と普通の杖で生活していました。レントゲンやMRIなど撮ったり、紹介状書いてもらって別の病院へ見てもらうなど、2週間に1度通院していました。
トラムセットとノイロトロピン、胃薬処方、それとモーラス湿布で合計4ヶ月過ごしていました。
このブログで度々出てくる足の故障によく似ている症状なのですが、一体これは何でしょうねという病気です。体脂肪計を1年モニターして食生活や生活リズムには気を付けていましたが、病名がよくわからないというのには困ったものでした。

こんな状態でしたが、去年1月から配属された会社は、幸いフレックスを使えて最大朝10時30分出社できる事と、場所がここから2駅なので、特に休む事なく会社を普通に務める事ができました。

今は薬をやめており、右足首が少し痛痒い位で、普通に階段の昇降ができる状態まで回復しています。

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2018年10月下旬

ほか、去年特別な事って何だろう。母親を札幌まで送るとき、札幌で一泊した時でしょうか。母親とホテルで泊まる事は初めてでした。

あ、それと去年私の家族が一人増えました。
私のじゃありませんw 妹のです。去年は、車いすで介護が必要な父を熱海まで家族そろって日帰り旅行に行きました。こういう事って嬉しいですね。



クックパッドがプロトタイプエンジニアを募集中2018/05/14 23:53:09


クックパッドがハードウェアエンジニア募集中

あのクックパッドが、なんとハードウェアエンジニアを含めた試作エンジニアを募集している様だ。


メカ

  • プロダクト筐体、パーツ、機構、レイアウトの設計

  • デジタルファブリケーション機器経験(e.g. 3D プリンタ、レーザーカッター)

電気

  • 電気回路設計・実装・発注(e.g. ハンダ付けやブレッドボードの製作、プリント基板の発注)
  • 用途に応じた各種デバイスの評価・選定(e.g. アクチュエーターやセンサー)

ソフトウェア

  • デバイス制御ソフトウェア開発経験(e.g. 各種デバイスのデジタル I/O やアナログ I/O、シリアル通信、無線通信)

  • マイコン/マイコンボードを使った開発経験(e.g. Arduino や ESPr、mbed、Raspberry Pi)



という事で、なにか創作的な事をやりたいのかと思う。よくある、〇〇プロジェクトがありお任せしますとかいう具体的な事は描かれていない。
文面だけをみると、何だか面白そうだなと思ったりする。

ただ、このページでは雇用形態、賃金、福利厚生などのごく一般的な採用情報は記載されていない。「趣味を仕事に」という系統は、経験的にいうと低賃金な場合が多いので、興味のある人は一度問い合わせるのがいいと思う。

それにしても、意外な企業が意外な募集をしているんだなと驚いた次第だ。


新しい職場になって2ヶ月経過2018/03/04 01:05:20


いろり庵きらくで朝定

あ、これは良く利用するいろり庵きらくの朝定w

3年間務めていた会社から新しい職場に変わって2ヶ月が経った。とにかく覚える事が多くて、そして残業もそこそこある。初回3ヵ月の契約が更新されたのでひとまず安心。

忙しい職場ではあるが、自宅からの通勤がとても近くなり、更にフレックス制なので時間を有意義に使う事ができるようになった。

それと、晩酌で酒場に立ち寄る事もずいぶんと少なくなっていき、引っ越しした事で自宅に帰りたくなる環境を作れたのも大きい。

仕事に余裕が出てきたら、自分の趣味の電子工作を充実していきたい。

それにしても、花粉め(´・ω・`)

新しい勤務地2018/01/12 23:03:50


むさしのうどん

去年から希望を出していた次の仕事先の要望が9月頃に決まり、今年5日より新しい勤務先になった。それから一週間、新しい業種のため色々と勉強することが多かったので、久々に疲れてしまったのだが、逆に新鮮な空気が入ってきた。

会社の環境で一番大きな変化は通勤時間で、今まではドアからドアまで片道1時間30分位かかっていたのが、半分以下の40分弱になり、毎日片道分以上の時間が自由に使えることになる。
あと、フレックス制なので、自分の時間の調整ができるようになる。通院などはこういう制度を積極的に利用できる。

大手企業の中に入り込んだのだが、その母体は合併吸収された私も知っていたブランドの会社という事を知り、親近感が急速にわいた。どこまでが役に立てるかが分からないが、いつも通り、いやそれ以上に頑張っていきたいと思う。


久々に仕事の事でも2015/10/04 22:49:54


電線に引っかかった風船

私が派遣会社に就職したのが去年の2月。それから1年と8ヶ月が経過した。契約社員での雇用だったが、色々と活動を認められ、今月より推薦で正社員登用となった。給料が2割ほど上がる事になる。今は派遣先は2社目。CR-8000のCADが使えるようになったし、今はAltiumのCADも使えるようになった。CPLDを設計したり、基板を発注したりと色々と経験をすることができた。

「正社員で開発を」なんて事を考えていたが、派遣会社でも自分の目標をきちんと設定すれば、スキルが上がっていくことを知った。私の会社は将来のビジョンを見据えたプランを描くことになっている。単に派遣先へ人材を派遣して金をもらうだけという、ピンはねの派遣会社では無かった事が一番良いと思っている。派遣のピンはね会社は本当に多い。少なくても面接した数社はそんな感じだった。

思えば、足を悪くしている最中に会社の業績が悪くなり会社が解散、その後1年は足の治療に専念しつつ、仕事を探すも中々見つからず、次の年は単発の仕事をもらいつつ、就職活動をするも梨の礫で困っていた所に半年間だけ請負の開発を行った。その時は色々とお世話になった事をとても感謝している。

しかし、現実というのは厳しく、開発業をフリーランスで食っていくには、設備にも限界があり、さらには成果物の責任も重い。その割には金銭的見返りが低いので、貯金を崩しながら生活をしていった時期でもあった。

タクシー会社にも面談したり、受けられる就職活動は出来る限りやった。結局吹っ切れて、派遣会社にマトを絞り、大手派遣会社だけを面接した。3社同時に受けたが、社員を大事にし、将来の待遇の厚い今の派遣会社に決めた。

今になって思ってみると、なんであの時タクシー会社に入ろうとしていたのか、心がとても疲弊していたのだろう。仕事で相談相手もないと、良からぬ方向に転んでいくんだろうと思った。
また、あの時は、お酒の量も多くなってしまい、負が負を連鎖するという立ち上がれないんじゃないかと思ったほどでもある。あの時は、色々と助言をしてくれた方の存在の恩を忘れない。

10/18に情報処理技術者試験がある。セキュリティスペシャリストを受けるのだが、それは午前1合格狙いだけの目的。一度合格すれば向こう2年は有効。本命は、エンベデッドスペシャリストに合格することなので、春には集中した勉強で是非合格したいところだ。
そのために、お酒は控えようと思う。とりあえず18日までは止めておこう。自己管理をもっとできるようにしないとな。

私がこの1年8ヶ月の間に、仕事の相談を結構している。派遣を薦めて2人は既に半年以上勤めている様だ。他にも仕事の相談で色々な方が私とコンタクトしてくる。実際Face to faceで話したりして、相手の現状と、やりたいことなどを助言している。いつの間にかカウンセラー役になっていた。自分の苦しかった経験談が、他の方を救えるとは思いもしなかったが、仕事の悩みは大なり小なりみんな持っているんだな。派遣社員は思った以上に私の色々な事を豊かにしてくれた。当面は派遣業でやっていく予定。そして、これからもまっすぐな生き方をして行きたい。

仕事先が変わって4ヶ月目2015/04/01 23:52:15


2015年4月

今年から仕事内容ががらっと変わって、3ヶ月が経過した。

職場環境も変わり、小さい会社での仕事。まだまだ昭和の風情が残り、きまり事を毎朝復唱するとか、高校でも言われないような服装などの事を指摘されるとか(今どきワイシャツの第一ボタンを外して注意されるとは思わなかったし、他の人は腕まくりで注意されるとかw)、つまらない部分はあるが、面白い部分を探せば、開発の内容としては得られる部分がある。
派遣で良かったと思う部分でもあり、割りきって仕事ができるのは、精神上良いことだ。

今年になって、しばらく触っていなかったALTERAのQuartusIIを業務で使う機会があって、Verilogで挑戦するも、開発時間が押し迫ったプロジェクトにいきなり配置されたので、やっつけ仕事で回路図入力ベースでなんとか凌いだ。これを期にVerilogを学んでみたいという気になった。



派遣会社は1年度ごとに、5000円まで図書の補助をしてくれる。いい制度なので、前に品定めしていたすすたわりさんのFPGA入門を購入。VerilogでもVHDLでも書かれていて、さらに、回路図での説明があってありがたい。Xilinx系であるが、Alteraでも十分応用が効く参考書となるだろう。

あと、懲りずに4/19に向けてエンベデッドスペシャリストの学習をしている。午前1の免除は今回までではあるが、なんとか受かるように勉強中だ。

※というわけで、ブログの更新は4/19まで週に1~2回程度になります。

派遣という仕事で1年が経過して2015/03/01 23:08:30

3月
去年の2月から派遣を始めて1年以上が過ぎる。去年12月で派遣先の会社都合で契約延長とならずに、今年から新しい派遣先になった。
もしこれが正社員だったら、いつもの様に履歴書や職務経歴書を作って、片っ端から会社に送るなんていう事をやっていただろう。

その点、派遣会社にいれば、営業がほぼ全てのマネージメントをやってくれる。職務経歴書のアップデートすらやってくれる訳だ。
更に、勤務地の候補とマッチングも全部やってくれる。一人で仕事を探していた時期は何だったのか。

つい先日に昔の会社の方と話す機会があり、曰く「昔のシステムハウスの様な機能が、派遣が担っている感じだ」と云う。確かに、20年くらい前のシステムハウスは案件受注型の仕事の方法だったが、その案件が無くなると途端に暇になり、また仕事探しを繰り返す。場合によっては、請け負いと称して客先に常駐する派遣じみた仕事もしたりする。脱・請負を目標に自社での製品開発を試みるも、所詮請負なので会社規模を大きくできずに頓挫。いまやシステムハウスという言葉が死語になりつつある状態だ。

そう考えてみると、開発案件が縮退・喪失し、技術社員が行き場所を失うことなく、いつも次の案件を紹介してくれる派遣のシステムは、とても良く出来ている。それに、転職で履歴書に会社名が増えることもないし、必要ならば通信教育などサポートもあり、更に残業超過やメンタルの悩みなどのケアも万全だ。もちろん、今まで務めた仕事があったからこそ、今の技術派遣をこなす事ができるわけで、楽になるとかそういう事ではない。

私は、今まで理想的な開発会社を望んでいたが、時代が変わった感じがした。

新しい職場では、問題が無いわけでは無いが、何をすれば解決できるかをいつも考えて行動すれば、それが己の経験値が上がるみなもととなるはずだ。簡単にできないとは言わず、常に前向きに行動していきたいと思う。




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