※1/4 一部加筆修正、写真を挿入しました。
新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
最後にブログを書きこんでから5ヶ月弱も書きこんでいませんでした。
理由は幾つかあるのですが、一番大きな理由は、仕事量が増えたため、趣味のまとまった時間が取りにくく、電子工作ネタなどがとても少なくなってしまったというのがあります。
今年もそんな感じて不定期な書き込みとなりそうですが、どうか宜しくお願いします。
そういえばここに引っ越してきて、2年目になるんですね。去年のベストバイは洗浄機能付き便座でしたw 本当にこれは快適。早く買っておけばよかったと思っています。
平成31年も新元号は4/1に公表、5/1に改元ということで、貴重な年でもあります。
さて、今までを振り返ってみて自分の備忘録も兼ねて色々つらつらと書いてみようと思います。
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仕事面では、去年1月より測定装置の開発関係に携わっています。恐らく2006年から8年位のペースか、それ以上の仕事量ですが、やっていることは面白いのと、今までの私の知識と経験の蓄積が、手前みそながら役に立てていると思います。それなりに収入も増えました。
過去の話をしましょう。
高校卒業後、蒲田にある専門学校に入学しました。そこでは情報工学科を専攻し学びます。
寮は横浜線中山から約1時間かけて通学していました。2年目の夏ごろ、家庭の諸事情で寮をでて、同じクラスの友達に頼み込んで、大森にある木造アパートに転がり込みました。この頃、ゲームセンターのアルバイトを始めました。理由はどのアルバイトよりも時給が良かった事と、学校から近かったので決めました。あの時は4ヶ月ほどお世話になりましたが、お元気でしょうか。
この頃は仕送りが無くなり本当にお金の無かった頃で、学生時代は遊んだという記憶があまりありません。そのうち蒲田に月1万6千円の5畳半のアパートを借ります。当然風呂なし、共同トイレですが、台所だけはありました。ここは最終的に社会人時代を含めた5年間住む事になります。
1年休学届を出して、3年かけましたが無事殆どの単位を取得して卒業しました。こたつでレポートを書き、対数グラフを自在定規で書いていた頃を思い出します。専門学校生は卒業するのが大変だと思いました。
アルバイト時代は、メダルゲームなどのトラブル等に対応していた時、ふと自分の考えた回路がコインつまりを予防できるのではと、今となっては勝手な改造を行ってましたが、これが本部会社の方で評価をもらい、更にメダルゲームの開発などの事があって、ここの技術部に就職しました。ゲームセンターのフロアーで半年の研修を行いながら、運転免許を取得します。
しかし、いざ開発部に入ると、開発とは程遠いメンテナンスの部署でした。営業の店舗は数十店舗あり、主にアーケードゲーム機の修理や台の入れ替えでした。
それでも、仕事の終わったわずかな時間を使用して、リレーやグルーロジックで動くマシンを、納屋に転がっていたCP/Mマシンを使って、アセンブラを駆使し、ラッピング基板を完成させてボーリング場に納めたのはいい思い出です。
アルバイト時代から2年、正社員で2年が経とうとしているとき、思い切って会社に心境を話しました。答えは将来自社開発を行いたいとの事。なら、なおさら私の技量が足りません。
結局、基礎的な開発ができないと思ったので、この会社の方に、丁寧に事情を説明し、次への転職となります。この頃は昭和から平成元年になった年の幕開けでした。
最初に(開発会社として)就職したのは1989年、委託開発会社という大手中堅メーカーから開発案件をもらい開発していく姿をとっていました。たくさんの開発を行い、ファックス開発や評価、同時会議通訳システムなどの方式検討など、実に様々な事をさせていただきました。
ただ、メーカーではなかった事とバブル崩壊後だったこともあり、大手からの委託案件が激減します。私に何かできる事を考え、技術営業を行いました。いくつかの新規開発などが決まった時には嬉しかったです。余談ですが、この時知り合った方とは、今でもお付き合いがあり、去年忘年会でお会いしました。私の苦しい時に仕事を頂いた恩人でもあります。人のつながりは大事と何十年過ぎた今でも思います。
当時は平成5年(1993年)、委託でなくてメーカー先でじっくり開発をやって行きたいと思っていた私は、仕事の取引先だった所へアシスト自転車の開発の話で横浜の小さな会社へ転職しました。
一緒にここに来たもう一人の人と、某自動車会社2人との4名で数か月は試作や開発を行っていました。自動車関係の方からはひずみゲージの使い方を教えてもらい、これで車体剛性を測るんだとか、ひずみゲージの固定は瞬間接着剤でOKとか、これまた目からうろこが出るような情報交換をしながら開発をすすめていき、プロジェクトが一見軌道に乗るかに見えました。
しかし、経営者同士の対立で、開発物件はチームもろとも雲散霧消と消え、開発どころか工場の巻き線ロボットの教示や電子蛍光灯の調整など、開発とかけ離れた仕事となってしまいました。このままでは何もできないで終わってしまうと危惧し、仕事先を探していました。
アシスト自転車の開発の事は、本当にもったいない事ですが、経営の考え一つで方針が変わってしまうものなのかと悟った時期でもありました。
時代はwindows95になったばかり。求人広告を眺めていると、ノートパソコンの開発の募集がありました。メーカーではないのですが、どうせやるなら最先端をと、場所も新横浜と近い事もあって、面接して即決、1995年12月に転職しました。会社は10人もいない小さな会社。この会社ではノートパソコンのかなめであるパワーマネージメントLSIを売りにFAE( Field Application Engineer)を展開している強みで、国内大手パソコンメーカーの引き合いから、仕事が色々ありました。
高密度な基板設計、常に最新のパソコンCPUを使用した設計や評価など、本当に普通では経験をし得ない貴重な事ができました。まだノートパソコン黎明期だからこそできる色々な土俵があったと思います。私の考案したオーディオ回路などは、某ノートパソコンに採用されたりしました。
そして、フロリダの工場やボストンの工場へ行く事ができ、これまた貴重な経験を積みました。windows98の時代です。日本との時差は13時間あり、日本での早朝電話会議時、渡米側10人余りはレジデンス(平屋のホテルみたいなもの)からバドワイザーを飲み会議を行っていた緩い時代でもありました。
そんなノートパソコンの開発が花形なのも1年で各社低価格競争となり、会社の一部はアルバイトなどを入れて大手ノートPCのサポート修理センターを行うなど、じり貧な状況となっていきます。気が付いてみると、開発と呼べる案件がほとんど無く、開発を行っていた人たちの新たな岐路に迫られる運命となります。
とりあえず何かやろう。ここからは、アミューズ関係や、小さな開発会社へ行ったり、または商社で開発したり、数年単位で開発業界を渡り歩きました。開発という命題を崩さないで、私が生きるため、結果として短命な仕事のやり方になってしまったのかもしれません。この頃は、あの9.11事件もあった時代です。最終的には委託開発に戻り、秋葉原の小さな会社で細々と仕事をしていました。この頃は、過去の人脈伝手に仕事も色々頂きました。
2006年初春、そんな折、以前ノートPC開発で一緒の釜の飯を食べた仲間から、地上デジタル開発をやらないかと誘われました。当時はまだアナログテレビが主流で、デジタルテレビはこれからという事と、来る2008年北京オリンピック需要を見据えての話だという事を切り出してきました。今の会社でも、何とか細々やっていけるかなと思っていたのですが、やっぱり新しいことはやってみたいし、メーカーでありたいと思い、悩んだ挙句2006年4月に転職です。
ここでもまた未体験の技術と向き合う事になります。ARIB STD-B31、地上デジタル放送の国内向けISDB-T規格のチューナと周辺開発の主にハードウェア開発をやってきました。仲間はこの時ハードだけで10名、プラットフォームやミドルウェア、検証チームを含めれば、ざっと50人で数種類の地上デジタルモジュールを開発していました。ここでの最初のミッションはマレーシアでの工場立ち上げ。結果として一ヶ月滞在する事になりましたが、量産体制までもっていくことができました。初めてのマレーシアでの出張は大変でしたが、今となっては貴重でいい思い出です。
それから、地上デジタルテレビやワンセグにまつわる開発を行い、中国や韓国へも行きました。色々順調かと思っていたのですが、別の所で経営に不穏な話がでてきており、それを気にしていました。
リーマンショックと重なる2009年春に大規模な人員整理があり、社員の半分以上が解雇されました。私はその時は解雇されませんでしたが、その年の9月頃会社更生法となりました。引き続きテレビ関係の開発を行っておりましたが、12月にある小さな会社に技術者約30人を譲渡したものの、契機をすぎて成果が出ずに結局解体したのが2012年でした。
この後1年間はハローワークで給付をもらいながら次の仕事を探していましたが、ことごとく見つからず、次の2013年ではこれでは貯金が目減りするので、個人事業主として1年弱過ごしました。儲けが出るには程遠く、経費もかさんでいくので、毎月が赤字です。今だと青色申告とか、もっとやり方があったと思うのですが、まず個人事業主になるための知識が乏しかった、いやほとんど無いといっていいでしょう。平行して転職活動をしていましたが、最悪、生活を確保できるようにタクシーの面接などにも足を運びました。
再就職がこんなに難しいとは思いませんでした。派遣会社は賃金や待遇に、当時はいいイメージがなく避けていたのですが、いよいよ仕事をしないと生活ができないと、もう背に腹は代えられず派遣の道を進みました。今思うと、タクシーの面接に行ったのは、運転資金でも作って個人事業主でもやればよいなどと行き当たりばったりに思っていたのじゃないかと思います。
晴れて2014年1月に内定し2月より再就職を果たしました。ただ最初はアミューズメントでしたが、これも背に腹は代えられません。しかし、ふたを開けてみると、最新のCADシステム、一台1千万超の測定機器や設備などが全部購入品というのも驚きましたが、私が生涯経験できないような設備を使えたのが夢の様でした。ジブリの「風立ちぬ」でも戦争兵器を作っているが、我々は技術を追いかけているシーンがあり、まさにそんな境遇でした。
そして、なによりも今まで散々だった転職活動の負としていた職務経歴書が、すべて正の方向に動き、私の今までの経験がこんなにも役立ってくれる事を、とても嬉しく思ったのです。派遣は後ろめたいというイメージはこの頃、払拭しました。
アミューズメントは結局1年だけでした。諸事情により多くは語れませんが、最後まで現場の方などからは送別会などを行ってもらい、手厚い対応でした。経営的に派遣は清算しやすいのですが、現場ではこれから大変だとぼやいていたのがとても印象的でした。
2015年になると、通勤に自宅から1時間半くらいかかりますがX線の開発関係をやりました。まったく未知な分野で、扱う電圧は一気に10万ボルト1ミリアンペアです。扱いを誤るとあの世行です。
アミューズメント時代の華やかさは全くなく、随分と古い建物と設備で部屋が寒く、最初の1ヵ月目で1週間ほど風邪をこじらせてしまいましたが、会社は休めませんでしたので無理して通勤しました。
X線の動作を3ヵ月で覚え、次の半年で大手にプロトタイプを納めました。製品評価をおこなっていましたが、FPGAの中身とか組み立て設計書なども手掛けたので、仕事としてはかなり手ごたえがありました。途中で組織変更があり2017年には残業がほとんどなかった状態です。(この時にトランジスタ技術のPIC記事を執筆しました。)
ここを勤めようと思えば続けられたのですが、私が所属している派遣会社は更なるスキルを目指すための計画書や目標を作って日々のスキルアップを目指し、給料もそれを考慮して上がるようになっています。なので、色々な限界が見えてきていたので、秋ごろに次の仕事の紹介を派遣の営業に動いてもらっていました。数社のマッチングで決まったのが、現在勤めている光測定機器関係の会社です。
現在の職場の内容は、勤めている関係でここでは書きませんが、私の知らない事はいっぱいあると強く思いました。一つの会社に長く勤めていたら、こんな経験はおそらくそうそうできないでしょう。
昨年秋ごろには、どうしても切り抜けられないハードウェアの問題が2つ発生しました。それを私が方式の提案をしたところ、最初は受け入れてもらえませんでした。それもそうです。実績というのを重んじた設計は当然あるでしょう。しかし、私の経験でこの方法なら解決方法ができる事を、検証レポートと共に丁寧に説明して、最終的には1つは別の方法、そして1つは私の方法が採用されました。地味な回路ですが、その方法は画期的で、周りの方々の評価と信頼を頂きました。
ここで、私は学歴が専門学校卒(私は日本工学院専門学校卒)とか、「転職が多いですがじっくり腰をすえて仕事できないんですか」とか面接の担当者から言われた事がありました。そういう事もあったので、自分になにか自信がなく、後ろめたさがあったのかもしれません。しかし、学校を卒業したあと、転職が多いものの、やってきたのは開発一筋で行ってきましたし、絶えず勉強という事を忘れはしませんでした。これらが、自分の血肉となって今の私となっているんだと痛感しております。
今現在、派遣業をやっていますが、派遣は決して悪いものではありません。全て理想的にいかないかもしれませんが、少なくても何か問題があった時のリカバリは、個人で職探しするよりもはるかに良いです。何よりも、色々な技術職を経験できます。私の所は資格手当がチャージされ、前向きな人を評価するようにできています。
転職のとき、個人で履歴書や職務経歴書を企業に提出するとき、転職経験が多くなれば人事の採用がマイナス評価になります。「落ち着いて仕事していない」「飽きやすい」「会社をすぐ辞めるのでは」というのが根底にあると思います。日本の企業の年功序列が崩壊していても、それに順応できない人事はたくさんあるので、ある意味仕方のない事なのかもしれません。
それが、派遣会社に所属すれば一転して企業が欲しがる職務経験値として評価されプラスとなります。人材の需要の発端が、人事からなのか、それとも現場からなのかの違いが一番大きいと思います。派遣会社は、その部分をうまく捉えて営業しています。
給与はどうかと言えば、あなたがどれだけ欲しいか、もしくは必要かで一概に言えません。ですが、50歳を超えても技術者として勤めあげるという事はできると思います。派遣会社に勤めるという事は、マネージャーがいつもついている感じで、職務経歴書も全部管理してくれています。それに一番大きいことは、新しい技術をいつも取り入れられる事です。これも時と場合によるのですが、少なくてもそういうチャンスはあります。派遣で切られてしまっても、次の派遣先を工面するシステムになっています。ハローワークでとても不安な思いをしていた頃を考えれば、世界が全く違います。
テレビ時代の時に知り合った方は、リーマンショック以降は名の知れた経営者のいるソフトウェア会社に居たのですが、暫くぶりに会ったときに話を聞くと、どうもやりたい仕事を行っているわけでは無かったようでした。
経営陣を忖度するくらいなら、やりたい事をやりたいといっていたので、今の私の会社を紹介しました。あれから3年、今では落ち込んでいた彼も元気にコードを書いています。合計3人を、この4年の間に紹介しましたが、技術畑に根を下ろし、さらに成長しながら活躍しております。
派遣会社推しになってしまいましたが、私は特に派遣が好なわけでなく、私が足りない部分を補ってくれる機能があるという事です。
ずっと同じ所で勤められる事に越したことはありません。終身雇用がダメと言っているわけでもありません。それに、家庭を持っている方々にとっては、今ある環境を崩すという事は、とても悩ましいことです。ただ、人の活動ができる時間は限られています。ここでこれからどうしていくかは、様々な周りの環境を考えつつ、数日じっくり考えてみるのが良いかもしれません。
以上、私がここまで書いた理由は、何かの理由で失業状態となった方とか、今仕事でどうしたら良いか悩んでいる方々に、私はどういうあゆみで開発業に携わってきたのか、そしてどんな問題が私の中を通り過ぎていったのかを語ることで、少しでも読んでいる方のヒントになればと思いました。
文章で拙い部分があると思いますが、ご了承いただければと思います。
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健康面ですが、5月半ばから8月上旬の2ヶ月半、9月半ばから12月中旬の3ヵ月は、右ひざと右足首を故障していて、一時期松葉づえ生活と普通の杖で生活していました。レントゲンやMRIなど撮ったり、紹介状書いてもらって別の病院へ見てもらうなど、2週間に1度通院していました。
トラムセットとノイロトロピン、胃薬処方、それとモーラス湿布で合計4ヶ月過ごしていました。
このブログで度々出てくる足の故障によく似ている症状なのですが、一体これは何でしょうねという病気です。体脂肪計を1年モニターして食生活や生活リズムには気を付けていましたが、病名がよくわからないというのには困ったものでした。
こんな状態でしたが、去年1月から配属された会社は、幸いフレックスを使えて最大朝10時30分出社できる事と、場所がここから2駅なので、特に休む事なく会社を普通に務める事ができました。
今は薬をやめており、右足首が少し痛痒い位で、普通に階段の昇降ができる状態まで回復しています。
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ほか、去年特別な事って何だろう。母親を札幌まで送るとき、札幌で一泊した時でしょうか。母親とホテルで泊まる事は初めてでした。
あ、それと去年私の家族が一人増えました。
私のじゃありませんw 妹のです。去年は、車いすで介護が必要な父を熱海まで家族そろって日帰り旅行に行きました。こういう事って嬉しいですね。
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